プロフィール

初めまして『きょう』です。

私のモテ期は12歳から22歳の10年間でした。

それ以降は自分から積極的にアプローチをしなければ何も起こらないという日々が続きました。

では12歳から22歳まで女性に不自由なく ハッピーな青春を送ってきたのかといえばそれは否です。

この年代は周りから「成績を上げろ」いい学校へ進学しろと周りにプレッシャーをかけられてきた頃なので恋愛に対して脇目も降っていられませんでした、24歳以降モテないことに卑屈になっていたのかといえばそうではなく積極的に仲間を作ってナンパに興じていました。

24歳から30歳ぐらいまで行動あるのみでした。

モテないならば街コンに行って出会いを探すとか風俗のお世話になるという方法もありますが、それらの方法はお金を払えばいつでもできることです。

路上や化粧売り場の販売の女性に突然声がけができるのは若者だから許されるし失敗もできるのです。中年の親父になったら そういうことはできません。だから良いと思った女性には積極的にアプローチをしました。

恋愛に対する強い衝動が心の中に生き続けるうちは結婚しない。

たくさん恋愛遍歴を積むスタンスで生きてきました。
48歳で結婚しました。世間評価ではごく当たり前の晩婚男なわけですが自身の中では後悔はありません。しかし確信した事は恋をしたいという欲は一生消えないし、男が生きる原動力になるものなのです。
妻帯者であっても素敵な女性を目にしたならば心が華やぐことを否定しない価値観で生きています。
心が華やぐ大脳の機能が動き続ける限り恋愛感情は生かし続けて行きたい。

それが私の提唱する男の生き方『恋情不滅』なのです。

著者の情報

年齢:1973年2月生まれ。52歳。

出身地:8歳まで東京、現在は北海道は札幌市で妻と在住

職業:柔道整復師

趣味:洋画鑑賞及び洋楽鑑賞(スプラッター系は苦手)

子供期(不仲だった若き父と母を見てきた時代)

3つの頃、祖父母が住む会津若松市に預けられてました。家は田んぼの中にポツンとひっそり。

当時の記憶は犬と遊んでいたこと以外記憶にありません。

父は他人の借金を肩代わりし、返済のために資金調達に奔走、幼い私との時間を顧みる状況ではなかった、母との夫婦関係不和。後に別居。それはそれはめちゃめちゃでした。


母は恋愛をしていました、歳は15歳離れた設計士のおじさん。父にはない優しい話し方をする人でした。不倫の定義は悪です、しかし女性には優しい、子供にも優しいという条件が重なると子供にとっては正義に映るわけです。
後に両親は関係を修復し、母は設計士のおじさんと別れました。

私たちは商売の事情で北海道に移り住んだのです。

母とおじさんはその後も電話でコンタクトを取っていました、ある日おじさんから掛かってきた電話をタイミング悪く父が取ってしまったのです、父は激しい怒りをおじさんにぶつけていました。

その日を境におじさんからは連絡が途絶えました。

私が22歳の頃、母が当時を語っていた事を覚えています。『●●ちゃんね(おじさんの愛称)私にマリ(母の名)を返してください。』と言ってたのよ。

そう語った彼女。ふと見ると後悔のない満たされた表情でした。

中学(私より大人の同級生達)

体が小さく臆病だった私。学校は嫌いでした、同級生たちは体も大きく第二次成長期で性欲を漲らせて卑猥な言葉を口から発し続けている、それは受け入れようのない異世界でした。

授業が終わったら逃げるようにして帰宅。当時は校内暴力真っ只。

通常であるならばイジメの対象になってもおかしくはありませんでした、しかし同級生達は私におべっかを使い、私を自分達グループの懐に入れようとしてきました、その理由は子供なりの利害関係があったのです。

父はゲームセンターの経営者でした、それにあやかるために私と仲良くすればお金を払わずに遊ばせてもらえるという期待もあったのでしょう。に対し女子達からは私の着ているダッフルコートが可愛いとか弁当を食べている仕草が可愛いとか言ってきた。何が可愛いのか子供の自分にはさっぱり理解できない笑、今なら言われたら嬉しいのですけれどもね笑

当時を思うと『あの頃に戻りたい_と余韻にふけることもあります笑。

しかし当時は学校に通う気持ちを維持し続けるだけで精一杯だったのです。

高校期(友達がいない壁を乗り越える事だけを)

私立高校に入学。バドミントン部に入部。身長が伸びました。

臆病な内面にも変化の兆しが表れました、それは『人と絡まないと高校生活を乗り越えられない』という理由、ゆえに友人を見つけるために同じクラスの奴に声をかける行動ができるようになったところなんですね、勿論ヤンキーは苦手なので声掛けのターゲットからは対象外、自分と同じような気の弱そうなやつを選んで友達になってほしいと頼んだものです笑 この行動をしたお陰で修学旅行の自由行動の時間はとても楽でした。一人で大阪市内を散策は辛いですからね笑

バドミントン部の話になります。

女子部員達から『一緒にお祭りに行こう』との誘いがありました。普通の男子の心理であれば嬉しくないはずがないし、このタイミングを利用して彼女を作ってもおかしくない訳ですが、私はそれを無視してラケットで素振りをしていました。当時を省みると明らかに私の態度は間違っています。次第にこの子達の態度は私に対しての敵対心に変化。

女性から頂く好意を無視で返す事は絶対にいけない。全くもって『可愛げのないガキ』でした笑。

あの頃の自分をひっぱたいてやりたい笑、少年時代はこの様に屈折していました。

専学期(髪を伸ばし整髪料を)

1991年。介護福祉士を養成する専門学校に入学。

高校時代は坊主頭をしてきたのですが、20歳をそろそろ迎えるのだし、『髪を伸ばしてみたら?』という母からの勧め。『それも確かにそうだなあ』と髪を伸ばし始める。

当時は自分で言うのも何ですが笑、周りから『仲村トオルに似てる』と言われたものです。

通学はJR でした。ある日の朝、電車内で高校時代の同級生女子とばったり遭遇、彼女はハッとした表情で私を見つめました。照れくさげにどちらからの方とでもなく『久しぶりだね、おはよう』と挨拶を交わす。

放課後、友人達(気の弱い者同士)でカラオケに行き、夜帰宅すると、母がニヤニヤしていました。

ニヤニヤしている事を尋ねると、『高校の同級生と名乗る子から電話が来たよ、自分の家に電話くださいと●●君(私の名前)に御言付けお願いしますと言ってたよ。電話したら?』との事、名前を聞くと電車内でばったり遭遇した彼女でした。

当時は卒アルに学生の住所、電話番号が記載されている個人情報のリテラシーが低い時代です。

しかし、『別に友達じゃねえし。』嬉しい感情を嬉しいと表現できない屈折さは未だ治らない

結局そのお誘いという出会いのチャンスを冷酷に撥ねつけスルー。素直なら彼女と交際始まっていたかもしれませんね。彼女のルックスは大きな眼鏡を掛けていて笑顔がチャーミングな人、本当にもったいない。この頃は怒涛の逆ナン時代でした笑

青年期(羨望)

20歳、父の職場で働き始めました。
当時はバブル全盛期、B’z、ZARD、T-BOLAN、大黒摩季、カラオケ隆盛期です。

店のサービスでカラオケを設置していまして週末は多くの客で賑わいました、土日祝日、夏休み、冬休みは特に書き入れ時。休みは平日週1回。週1回の休みが取れればまだいい方で、人手が足りない場合は1ヶ月間休みなく勤務しました。

過酷な状況を乗り越えることができたのは、若さと体力があったからこそ。

しかし何より辛かったことは仕事よりも働いてる最中に若いカップル客がカラオケルーム内でイチャイチャ歌っているところを目にする時、『何故俺だけ仕事を』分かっていながらも羨望が込み上げてきたものでした。

青年期(人間関係を構築しなかった事への後悔)

20歳から24歳まで父の店で勤務。

休みの日は一人で映画鑑賞、疲労が蓄積している日は寝ているだけの1日。

友人関係も無く孤独でした。

現代のようにSNSが普及しコミュニティ参加するようなツールもない。

人との関わりなしに出会いなど訪れようもありません。

幼い頃から大人に恐怖し、不安を和らげぬまま成長、自己を守る為に心に装置した鎧を解かないまま成人を迎えた、自覚した時には時既に遅し、周りには誰もいない、人間関係を疎かにしてきた事を後悔しました。

24歳の時です、母が『あなたは会社を継ぐ2代目、数字に強くなる事が必要だと思う、この際現場から離れて、経理の勉強をしてみない?』という提案をしてくれました。

こう聞いた時、『キャンパスライフが来る!俺に第二の青春が』と実感笑

仕事で疲弊し息子の表情を見かね逃げ場を用意してくれたのだとも思います、ただ学生生活を満喫せよと意味合いはなかったはず、考え違いをしながら入学に臨みました。

青年期(勘違いから始まった経理学校)

心待ちにしていた経理学校の通学開始。

新卒ではないのでクラスで年長、社会人であれば5、6歳の年齢の開きはさして感ずる事なく仕事ができるかできないかで評価される事が一般的ですが、学校内で上記の年齢差がある場合完璧におじさん扱いされるものです。

 所属クラスは簿記学科。人数が10人おり女子は1名だけ、しかし失望はしませんでした。

授業によっては共通科目を隣室の経理医療事務クラスと合同授業を受けました、当クラスは女子の比率が高く、彼女達と接点を持つチャンスがありました、見渡すとショートカットの綺麗な子が1名いました。

彼女に照準を定め、その日の昼食時、経理医療事務クラスの中に入室して行きました。結果的に彼女とは何も進行しなかったのですが、ゲリラ的な行動を起こす勇気が何処に潜んでいたのか、人間とはわかりません笑

『 昼ごはん一緒にしない?』と言葉をかけると、『あなた一体誰ですか?』という表情をされました。

当たり前ですよね笑 女性は如何なる年齢を問わず、ゲリラ的、神出鬼没的なものに恐れや恐怖を感じるものです。この辺り私は非常に幼かった、でも優しい子で『一緒に?良いですよ』と受け入れてくれました。初回の授業を一緒に受け始めて、こちらの事が分からないのに食事中の会話など弾むわけはありません。

共に居心地の悪さを感じながら、昼食のお供はこの日が最後、その後彼女は卒業後、簿記クラスの男と結婚したという事です。

振り返り

閑話休題、一旦振り返ります。

24歳以降、女性との出会いを積極的に求め行動してきまして、失敗から学習してきましたが、52歳の今でも変化がないものがあります。

それはマインドです。

年寄りですから流石にゲリラ的な行動は慎んでいます笑

勝敗の世界で明らかに『それをすれば敗北する』という行動は起こしません。

でも『こうすれば心が得られる』という戦略は意識していないのです、人間の心は天候の様に変化するもので、それに付け加えて、距離を左右する相性がありますから、ノウハウ通りに行動して成功する確証はないのです。

恋愛関係に発展するというのは結果論であって相性やフィーリングに勝るものはないと感じています。それよりも距離を縮める為の行動を惜しみ、後から後悔をするという事態が許せない、後悔しない為に行動を起こす、どんな領域でも物事に対峙する局面において今もこのマインドは若さの原動力です。

青年期(現在に繋がる悪友との出会い)

簿記クラスの同級生は6歳下。勿論新卒の18歳ですから、数年でも社会に出た私とは視点に差異が生じます。始めは家でバーベキューをしたり交流を持っていたのですが、半年も経つと会話の質を保つ事に困難が生じ出しました。そうなり出すと険悪な雰囲気を出すまでに至らなくても無口になりました。

勿論、今当時を考えると年上として幼い態度であった事を否めません、話は戻りますが行動を共にしようという対象にはなりませんでした。

何を?一緒にナンパをする相棒達という意味合いです笑

当時、構内には観光学科クラスがありまして、そこで学ぶ若者と知り合いました、きっかけは喫煙所で知り合ったのです。彼の名前はJ。

彼は髪を赤く染めピアスをしていました。音楽で大好きなバンドの話をするとBOØWYが大好き、一気に距離が縮まりました。入学する前は高専に通っていて、成績を聞くと教室でもトップで、普段飲み歩いていて、麻雀に興じている日常なのに、いつ勉強しているか仲間内でも分からない。でもテストでは常に満点。後に『お前、遊んでいるばかりなのに、いつ勉強しているの?』と尋ねると、夜遊びした後帰宅すると寝ずに朝まで勉強し、身支度して学校に向かうという事なのです。

彼の日常もこれはこれで若さと体力があってこそならではのものなのですが、私が好きなタイプの野郎な訳なのです笑、普段遊んでいるのに影で見えない努力をする男に同性は弱いのですよ。

魅力のある者には魅力のある者が集う、私のクラスには存在しない海千山千の強者が揃いました。

共通目的は女を探す。

以降は 4、5人で集い、騒音に寛容で一人暮らしをしている仲間が住むマンションを合コンの拠点にし、獲物を探しにナンパスポットである浜辺に私の車で繰り出しました、その浜辺は男女共に知り合う事が共通目的なのでトラブルはないのですが、停車している女性達に声がけをする為に繁華街に繰り出す事は避けました、既に他の男達と待ち合わせをする為に停車しているのかもしれないからです、降車し女性達の車に近付いたところ背後から刺されるというトラブルを聞いたからです。

ナンパはスリルが豊富な面、トラブルに遭遇するリスクも孕んでいます、その行動をとる者の中には考えもつかぬ暴挙に出る者も想定する、リスクが隣り合わせである事を実感していればナンパは楽しい娯楽です。

ナンパで彼女はできませんでした、他人の事例を聞いても恋愛から結婚に発展したケースもない、でも歳をとり若き頃を振り返るとバカな行動も、その行動から派生した失敗が許されるのも若者だったからなのです、年寄りが件の様な行動をしたら、17歳から20歳の年齢で構成される美人局グループの鴨にされてしまうかもしれない。

何度も申しますが馬鹿な行動ができるのは若者だけ、あの頃の経験があったからこそ現代の若者達の行動にも笑って話を聞く心の余裕がある、今では後悔ありません。

青年期(試練を避け雷落下)

2年間在学の条件、それは『日商簿記を取得する事』とお伝えしました。

『全国経理教育協会簿記』略して全経簿記ではなく。

『日本商工会議所及び各地商工会議所主催簿記』略して日商簿記です。

余談、前者、後者希少性全く異なります、就職有利なのは圧倒的後者、勉強、試験内容密度が濃く、試験にクリアする為には堅実に学び知識を定着させていく習慣が必須。

知識にコミットする為に規則正しい生活習慣も必須、上記の考え違いの生活を歩んだ結果、全経2級資格をクリアした事を最後に全経1級、日商簿記3級の資格に受かる事ができませんでした、自業自得です、試験を受ける際、飛び級で受験する仕組みは業界には存在しません。

夜遊びに対し、母は相当腹に据えかねていたと思います、24歳から26歳、男が人として実力的に精神的に成長する大事な時期、何も試験にパスする事の重要性を意味合いする物ではなかったはずです。

『アンタを学校に行かせるのではなかった』一年生が終わりに差し掛かった頃激怒されました、幾度も申しますが、義務教育から任意で大学に通ったとて22歳で教育機関との関わりは終了します、その後は出世の為仕事に邁進、職場の同僚女性と交際をし、結婚、そのケースとしてよくある常識的な生き方を一旦中断したとしても、日商簿記1級資格を取得しさえすれば2年間の通学期間(社会から一旦リタイア)する事も許容されたはず。

合コンに明け暮れす経験と引き換えに資格は落ちた。結局、全国経理簿記2級の資格を得ただけ。後に『資格を取る事ができなかったお前の再入社は認めぬ』 父の会社に入社する許諾は降りませんでした。

『人一倍の努力をするからこそ人一倍の享楽を味わえる』

困難から逃げ甘い方法に逃げたいという感情が訪れた時この言葉を思い出しています。

中年期(打席に立つ)

27歳、モテ期は過ぎていました、意識しお近付きになろうとする程離れていきました、女性はそういうものです。子供の頃を振り返ると、中学生の時は漫画大好きで『北斗の拳』全巻揃え寝ても覚めても『北斗の拳』だけを読んでいました、ケンシロウのイラストだけを描いていました。

高校生の時は誰よりもバドミントンのシングルが強くなりたいが為に大人のサークルに入り角度の鋭いスマッシュを打てる様にラケットを振り、コート内を掛けました。

飯を食う時もそう、ご飯が美味しいから食べる事に没頭する。誰より奥手で臆病で勉強ができない私を他人が見る筈がない意識が前提にあるから没頭し尽くす事ができた訳です。価値の比較として比べるべきものではありませんが、仕事が好きで仕事ができる男性が女性からモテる所以は『没頭力』にあります。

女性に好かれたいという意識が強くなってから子供の時に持っていた没頭力が消滅しました。

『もう俺はモテない』その様に悟ってから、『どうせなら好きじゃない女から告白されるならば、自分から積極的に告白していく事』を選び、30代も打席に立ち続けてきたのです。当たって砕けろというマインドが身につきその後の30代40代の恋愛も同じように対処する術を身につけたのです。

中年期(恋と結婚の領域を意識した事はない)

30代を過ぎてからも恋愛をしました。告白と別離を繰り返す事の経験を重ねてきました。 旧知の人達は結婚し、自然な流れで恋愛する人も結婚相手として相応しいのか僅かに意識しました。

40代。私を見、母から『恋愛したいの?結婚したいの?』と尋ねられた事がありました。

改めて両者を切り分け意識した事がない。確かに別物という事ぐらいは認識していましたが論理的に考える事で艶めいた男女の関係性がスルメっぽい風味になっていく、『同じ屋根の下で住んでも恋人関係でいたい』思考する事で両者からその艶めきを損ない失っていく事を意図的に否定する頃でした。

30後半から40前半の私は。

今(妻と出会い)

2021年1月11日、婚姻届を提出。

48歳で妻と結婚しました、2016年5月から交際しましたから、5年。

妻との出会いは大勢の場でなく、海鮮居酒屋をロケーションに選んで頂き、1対1で会うというフラットなお見合いでした。正装しホテルのカフェで見合うというイメージの極ありふれたものではありません。

私が居酒屋に到着した時、彼女は定刻より早く到着しテーブルに座り待っていてくれました。

テーブルからニッコリ微笑みを投げてくれた記憶が強く残っています。

2016年当時、母が他界して間もない頃であり、ショックの壁を乗り越えられぬ心理的に非常に脆い時期でもありました。しかしその笑みが傷ついた心を優しく癒してくれました。

妻は16歳から看護学校に通い、この道一筋の女性、さもありなん、その笑みに計算の表現は感じられませんでした。(そうあってもらいたい笑)着座間も無く打ち解けられ、お通しを食べながらお互いの事をポツリポツリと話す頃にはフィーリングの強さを感じました。

私も妻もお互いに初婚。私は一人暮らし。彼女は実家暮らし、1週間に1回必ず会う関係性でした。

暗黙に互いの行動を規制する事を避けました。お互いに自由人であったところで言語化の必要性がないところが功を奏しました。交際は4年経過、本来であれば関係性を切られても不思議ではありません。

次第に彼女は私の人生を覆う存在になっていきました。歳を取っていく結婚する事を先延ばしする事に意味は見出せない。これからは一緒になり伴侶としての思い出を刻みたい。妻であれば父と弟と仲良くしてくれる、確信した時プロポーズしました。結婚は自分達だのみならず互いの両親の事も思いやる責任を課せられている。様々な恋愛を経験したからこそその実感は負担になっていません。寧ろ当然の事と認識し心で受け止められる様になった、50歳近くになって籍を入れたのですが選択は間違っていないと確信しています。

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